越境するアーティスト 越境するアーティスト

ワークショップは場づくりなので、鮮度が命だなって。演劇ってこんな見方もあるんだと感じてほしい。

田上豊Profile

1983年熊本県生まれ。桜美林大学文学部総合文化学科卒業。2006年、劇団「田上パル」を結成。方言を多用し、 疾風怒濤のテンポと、遊び心満載の演出は「体育会系演劇」とも評される。大学在学中にワークショップデザインを研究し、現在、 教育現場を中心に、創作型、体験型のワークショップを全国各地で実施している。演劇部の嘱託顧問や、総合高校での表現科目「演劇」の授業を受け持つなど、教育現場での経験も持つ。高校生、大学生とのクリエーション、リーディング、市民劇団への書き下ろしなど、劇団外での創作活動も展開。現在、富士見市民文化会館キラリふじみアソシエイトアーティスト、青年団演出部所属。

古くから、学校は先進的な知的生産の場でした。なぜなら、学校でしかできないことが多かったからです。例えば、ピアノの演奏や映像の鑑賞、パソコンの操作、外国語の習得などです。しかし現代では、学校は情報化や国際化に関わる知識や技能、研究的視点、地縁的な関係性などを学校外から学ぶ必要が出てきました。なぜなら、学校でしかできなかったことが、学校外でできる時代になったからです。そこで、今までのパッケージ化した教えを越境し、新しく柔軟な考え方を取り入れて行く必要があります。

学校が凝り固まったこれまでのやり方を見直さなければいけない局面にある中で、アーティストが学校教育に参入し、ワークショップ等の表現活動を行う事例が多く見られます。彼らはどのような思いを持ち、学校での活動を行っているのかをインタビューしました。

ワークショップデザイナー育成プログラムや学部の授業である「ワークショップデザイン/メディア・コミュニケーション」に講師として来てくださっている演出家の田上豊さんに、2018年に行われた田上パル第17回公演「Q学」のお話や、ワークショップについてお話を伺いました。

「Q学」を拝見して

苅宿

舞台は総合高校で、生徒たちがそれぞれ不器用さを持っていましたね。

田上さん

偏差値が高いわけではない子が憧れる学校として総合高校が流行った時代に学校と関わることが多くて、それが今回の題材となりました。完全な劣等生ではなく、秀でてるものはあるんだけどトータルで勝てないからちょっとグレてしまうという。

苅宿

グレる力はあるんですよね。そして彼女たちはグレるっていうことが限定的であることも知っている。

田上さん

非常勤講師をやっていた時期に不良たちと過ごした時間を、最近になってようやく、当時こういうことができていたのかな、と整理することができるようになりました。ワークショップの現場では「芸術性を高めるというより集ってわいわいやれば楽しいよね」と言っていますが、じゃあ、自分の作品ではそれを伝えられているか?と。それでできたのが今回の演劇です。

教育現場の方々がこの劇を見るとどうなんだろうと思いながら今回やってみたんですが、東京公演の方にもアクティブ・ラーニングをやっている方が観にいらっしゃって、自分がやっていることがうすっぺらいなじゃないかと思って、もう途中から見てられなくなったとおっしゃるんです。そんなふうには作ってないんだけど、そういうふうにも観られるんだなと思いました。

苅宿

僕はそういう狙いがあるんだと思っていました。というのは、日本の教師は教え好きなんですね。教え好きの先生に育まれた、教えられること大好き人間が教える側になっていくいう。そこでは、頑張ることに価値があるとされている。でも、劇中の先生はほとんどなにもしない。そこが「Q学」による演劇的なメタファとしての面白さだと思いました。

田上さん

WSDでも「教える」のではなく「離脱する」ことを目指して勉強されていると思いますが、学校教育の枠の中では難しい。「離脱」を求めて「離脱」をしている姿をみるのではなく、仕掛けたことで、生徒が自分たちの手でやり始めてるのをみて、これが「離脱」なんだなという逆の気づきがないと難しいんですけど、見てられないと言った方は、そういう部分を思ったのかなと。フィクションなんですが、やる気のない先生が適当に仕掛けて、コミュニティが活性化して何かを生み出していくというものを舞台上で見せてしまうので。

田上さんのアウトリーチについて

苅宿

田上さんは様々なアウトリーチ(2018年度授業第3回参照 http://lcd-aoyama.net/13.html )を行っていると思いますが、その中で特に、合評時のコメントに毎回感銘を受けます。あの部分が演劇的なアプローチの意味、つまり、演出家や俳優の専門性が突出している場面ですよね。

田上さん

最後のまとめのようでもあり、フィードバックでもあるので、否定はしないが、褒めるというニュアンスとも違う。やってきたことに対して正当にコメントしていく。専門的な視野の提示を、横文字や専門言語を使わずに、生徒との共通言語で行うことを意識しています。自分たちの言葉で振り替えってほしいし、褒められただけじゃなくて、演劇ってこんな見方もあるんだと感じてほしい。

苅宿

参加者(演技者)が自分のやっていることが、どのように見えるのか。ビデオでみてもわからないことが言語化されることで気づきになっている。それは、田上さんが演技というものがどう構成されるかを知っているからできる。演劇のセオリーで見た時の専門的な選択肢がいくつかあり、その中で一番意味があるフィードバックを選ぶこができる。けれども、演劇的なものさしのでは語らずに、その子が分かるように伝えている。そこにこのアウトリーチの価値や意味があると思ってます。

田上さん

演劇的なものさしだけで語ると、イメージがずれる時がある。そこで抱えている体感はものさしだけでは繋がりません。なので、あそこの部分は即興性が高くなります。ワークショップは場づくりなので、鮮度が命だなって。そこが磨耗していったらこの方法はやめようかなと思ってます。メソッド化できるのかもしれないが、場の鮮度が一番なので、準備はできない。全体の中で、前半は参加者がが頑張るかわりに後半はこちらがもつという感覚です。

苅宿

田上さんならではですよね。丁寧に、事実を伝えることもそうですが、そこから逃げずに、そこで言葉を生み出そうとしていることに、すごいなと思います。まず自分が逃げないと設定して、そこから全体を率いていく。全て身体的な表現というか、もうちょっとおいでよとか、有無を言わさずに柔らかく言って、やる感じ。そこから意味が見えてくる。だから舞台をつくって語らなきゃならないんですね。

田上さん

戯曲を書くとき、自分中に惹かれたものを強く書くとテーマに縛られてうまくかけないんですよね。あまり明確にロジックにするとお手本から抜け出せないものがある。自己模倣というか、成功体験にひっぱられてしまう。戯曲を書く苦悩とゴリゴリに固める時間が合い反してバランスがとれないことがある。だいたい大筋は組むけど余白をいれておかないと、空気作りではうまくいかないということがわかってきた。

苅宿

自分の言葉に責任を持ってしっかりと言い切る田上さんのアウトリーチと「Q学」の舞台にでてきた先生の脱中心度合いのバランスが面白いですね。

田上さん

一貫しているようで、していない不思議なバランスで成り立っています。どちらも、ベースとなる緻密なものは必要ですが、どれくらいまとめていくか、いいことを聞かせているか、というところに価値をみいだしてしまうのが怖い。どこかに心が揺れる瞬間を残しておかないといけないと思っています。